国史跡湯浅党城館跡
湯浅党城館跡の概要
湯浅党城館跡は、平安時代末期から南北朝期の紀伊国において大きな勢威を振るった湯浅一族を中核とする武士団湯浅党の城館跡です。湯浅党は、全国的にも豊富で多様な関連史料が伝来することから中世武士団の典型事例として取り上げられてきました。湯浅党の本拠である有田地方には、湯浅党を物語る遺跡や寺社、美術工芸品、石造物といった多様な文化遺産が数多く残り、日本中世史の中でも重要な位置を占めています。
これまで湯浅党に関わる城館跡については詳細が不明でしたが、近年の発掘調査によって湯浅城跡と藤並館跡の形成年代が、湯浅党が権勢を誇った鎌倉時代に遡ることが判明しました。湯浅党城館跡は、豊富な中世文書を伝え、中世武士団の典型事例として研究が進められてきた湯浅党を象徴するものであり、我が国の中世前期の武士団の在り方を知る上で重要であるとして、令和3年3月26日に国の史跡に指定されました。
湯浅城跡

藤並館跡
湯浅党の歴史
湯浅党とは、湯浅氏を中心とした武士団の総称です。湯浅氏と血縁関係のある同族の一門(いちもん)と、婚姻や養子関係によって結びついた他門(たもん)が提携して湯浅党を形成していました。湯浅党の惣領である湯浅氏が勢力を拡大するのは平安時代後期のことです。その始祖とされる湯浅宗重は、熊野街道に沿って湯浅の町場を開発し、沿岸部に屋敷を構えることで海上交通を掌握するなど勢力基盤を固めていきました。1159年の平治の乱では、湯浅宗重が熊野詣の途次にあった平清盛を助けて平家の有力な家人となりました。平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となり、紀伊半島全体へ影響を及ぼす存在となりました。南北朝期になると、湯浅党は南朝勢力の中核として抗戦していたことが太平記に見えますが、実際は北朝方と南朝方に分裂していたことが史料や石造物からうかがえます。1379年には紀伊国守護の山名義理によって藤並・湯浅・石垣といった湯浅党の拠点が攻略されて湯浅党は終焉を迎えましたが、湯浅党の一部は室町時代にも存続して紀伊国守護の畠山氏の家臣として活動していました。

湯浅党の本拠
湯浅城跡の調査成果はこちら (PDFファイル: 1.8MB)
藤並館跡の調査成果はこちら (PDFファイル: 1.1MB)
史跡湯浅党城館跡保存活用計画はこちら (PDFファイル: 8.5MB)
第1回国史跡指定記念シンポジウム資料集はこちら (PDFファイル: 9.9MB)
第2回国史跡指定記念シンポジウム資料集はこちら (PDFファイル: 9.5MB)
地図情報
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