明恵上人

伝明恵上人坐像(歓喜寺蔵)

伝明恵上人坐像(歓喜寺蔵)

明恵上人は鎌倉時代に活躍した高僧で、釈迦を親と慕い、実践を重んじて、ただひたすらに仏の道を究めようと厳しい修行を重ねました。名誉や利欲を離れ、純真無垢に生き抜いたその生涯から、生涯不犯の唯一の清僧とも呼ばれています。

明恵上人は承安3年(1173)正月8日、紀伊国在田郡石垣庄吉原村(現在の有田川町大字歓喜寺)において、父平重国と母湯浅宗重の娘の間に生まれました。8歳にして相次いで両親を失い、孤独の身となった明恵上人は、9歳の時叔父の上覚をたよって京都神護寺に入門し、そこで真言や華厳の教えを学びます。その後16歳で出家し、僧名を明恵坊成弁(後に高弁)と名のり、僧としての生活が始まります。

京都高雄の地を本拠とし、山中で修行に励むことが多かった明恵上人ですが、当時の荒廃した仏教に失望し、世俗を離れて仏法の奥義を極めるために23歳の秋頃から故郷の有田へ戻り、34歳頃まで頻繁に京都と郷里を行き来しながら修行修学の日々を過ごしました。最初の修行地であった白上峰(湯浅町栖原)では、俗念払拭の決意を示さんと、仏眼仏母像の前で自らの右耳を切り落とすなど、その修行は激しいものでした。郷里で修行に明け暮れた青年期には、多くの著作を著すとともに、釈迦を偲ぶ涅槃会を始めました。また、釈迦の思慕へのあまり、2度にわたってインドの釈迦の遺跡を巡礼しようと渡航を計画しましたが、いずれも春日明神の託宣や病等により断念せざるをえませんでした。

建永元年(1206)34歳の時、後鳥羽上皇より京都栂尾の地を賜り、高山寺を創建しました。明恵上人は一宗一派の祖師になることを望まず、布教活動は行いませんでした。数多くの著作を著し、優れた弟子を育て、戦災で身寄りを失った女性の救済なども行い、本来あるべき姿の仏教、あるべき姿の僧を求め続け、生涯その姿勢を貫きました。その一挙一動が自然と人々に感銘を与え、後鳥羽上皇や北条泰時をはじめ多くの人々の帰依を受けました。説戒の際には、明恵上人を慕う群集が集まり、説法できないほどであったと言われています。

鎌倉時代の仏教に、新たな息吹を吹き込んだ明恵上人は、寛喜4年(1232)弟子達に見守られ、我、戒を守る中より来るという最後の言葉を遺し、高山寺で60年の生涯を閉じました。明恵上人が亡くなられた時、天台座主であった良快は当世は明恵上人のごときを聖人と言うべしと述べており、明恵上人がいかに高僧であったかが伺われます。

関連史跡・ゆかりの寺院

明恵上人が修行した草庵7か所と生誕地を加えた8か所の遺跡は、明恵上人紀州八所遺跡と呼ばれています。八所遺跡の卒塔婆は、明恵の高弟であった喜海が嘉禎2年(1236)に明恵の遺徳をしのんで木製の卒塔婆を建立したことに始まります。その後、康永3年(1344)には、弁迂が湯浅一族を勧進して、石造の卒塔婆に建て替えました。今も7か所に卒塔婆が現存し、明恵紀州遺跡卒都婆として国の史跡に指定されています。有田川町内には、八所遺跡の内、国指定史跡が4か所、町指定史跡が1か所ある他、明恵上人ゆかりの寺院や史跡が数多く残っています。

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更新日:2019年03月15日