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宗祇法師

「心の連歌師」宗祇法師

静岡県裾野市 定輪寺蔵

足利義政が京都・東山に銀閣寺を建て、東山文化が花開いた室町時代、俳諧の世界に新しい流れを起こした一人の人物がいました。
その名は宗祗。
彼はこよなく旅を愛し、西行、芭蕉と並んで 放浪三代詩人と呼ばれるとともに、連歌を大成し、幅広く世に広めました。
宗祇の歩んだ道を簡単に振り返ってみましょう。

宗祇法師は応永28年(1421)、紀伊の国・藤波荘(旧吉備町下津野)で生まれたと言われています。
幼名は千勝と言い、少年時代は旅芸人として両親と一緒に全国を回りました。
13歳の頃、豊後の国(大分県)へ巡業した折、宿泊先の寺の住職から和歌の学習を勧められたことにより和歌の道を歩みはじめ、優れた才能を開花させました。
地元に戻った宗祇は16歳に青蓮寺にて出家し、仏道修行のかたわら和歌の勉強にいそしみ、30歳ごろから京都に上り、本格的に連歌に取り組むようになりました。

そして、代表作である「三無瀬三吟百韻」(みなせさんぎんひゃくいん)をはじめ、文化価値の高い作品を次々と発表しました。
当時の連歌が単にことば遊びのおもしろ味を競い、賭博を伴ったものであったのに対し、宗祇は格調高い文学性と芸術性の高いものへと変化させていったのです。
彼の名は全国に広がり、時の将軍足利義尚から連歌師としては最高の役職である「連歌会所奉行」を、朝廷(後土御門天皇)からは「花の下」(はなのもと)という最高の称号を与えられ、連歌師最高の位にまで達するのです。

漂泊の詩人とも呼ばれた宗祇は、旅の途中、箱根湯本で82年にわたる生涯を終えました。
その亡骸は弟子たちによって宗祇の愛した富士山に近いすそ野の地に葬られ、永い眠りに就きました。
宗祇法師は、連歌のみならず当時の領主や文化人が好んだ「茶」や「香」等にも一流の才能を発揮し、まさに有田川町に生まれた室町時代のスーパースターだったのです。

※宗祇の「祇」は、実際は旧字体「示」に「氏」と書きます。

「連歌とは」

連歌とは、二人以上数人で歌を順番に詠む短歌遊びで、鎌倉から室町時代にかけて貴族や武士社会で盛んに行われました。

宗祇の連歌は命令表現や疑問・反語表現、願望表現など多様な表現が駆使されており、語彙には悲しむ、恨む、憂し、つらし等、心情的なものが多様されており、この2つが重なって叙情性の強いものとなっています。
このことが宗祗が「心の連歌師」と言われる所以で、「宗祇の前に宗祇なし」「宗祇の後に宗祇なし」と評されるほどの連歌界の巨匠なのです。

紙芝居

紙芝居「過去を消した少年・勝」

史蹟

宗祇屋敷跡