自然・歴史・生業・景観
COMPONENT

自然

蘭島の周辺部は、山間地にありながらも比較的ひろく河岸段丘が発達する全国的にも数少ない地域の一つです。その中でも蘭島のように対称的な河岸段丘地形は 極めて珍しく、江戸時代初期に新田開発され、自然地形に沿って曲線的な畦畔が形作られた結果、全国的にも珍しい棚田景観が生み出されました。
また、かつて山間地の水田に当たり前に存在したツチガエルやトノサマガエル、アカハライモリ(和歌山県準絶滅危惧種)、ホシクサなどをはじめとした貴重な動植物が生育する豊かな自然環境が保たれていることも、景観の価値を高めています。

  • 上空から見た文化的景観(南を見る)上空から見た文化的景観(南を見る)
  • 日本最小のネズミ カヤネズミの巣
(和歌山県準絶滅危惧種)日本最小のネズミ カヤネズミの巣
    (和歌山県準絶滅危惧種)
  • オオチャバネセセリ
(和歌山県絶滅危惧Ⅱ類)オオチャバネセセリ
    (和歌山県絶滅危惧Ⅱ類)

歴史

この地域に人々が生活を始めたのは、約4,000年前の縄文時代後期に遡ります。長久3年(1042)の高野山文書には、蘭島周辺の地名が見え、水田の開発は平安時代後期に遡ると考えられます。鎌倉時代、この地域は阿弖河荘(あてがわのしょう)と呼ばれる荘園で、「ミミヲキリ、ハナヲソギ…」といったたどたどしい片仮名書きで、地頭の暴力を荘園領主に訴えた「片仮名書き訴状(国宝 又続宝簡集(阿弖河荘上村百姓等申状)」が著された地域です。この文書は、数多くの教科書にも取り上げられており、日本史上でも著名な中世荘園の一つとして知られています。江戸時代の明暦元年(1655)には、笠松左太夫が、有田川の支流である湯川川から引水して3㎞以上の水路をひらき、蘭島をはじめとした新田開発や、現在にも受け継がれている保田紙の生産を興しましたが、その開発過程や年代が特定できる史料が存在することも価値が高いものです。

  • 上湯(うわゆ)用水路上湯(うわゆ)用水路
  • 上湯・あらぎ島の開発を許可した文書
明暦元年(1655)上湯・あらぎ島の開発を許可した文書
    明暦元年(1655)
  • 小峠集落における紙漉き風景
紀伊国名所図会(江戸時代)小峠集落における紙漉き風景
    紀伊国名所図会(江戸時代)

生業

この地域の主な生業は、農業を中心に、林業やシュロ皮生産といった山仕事の他、養蚕や紙漉き、炭焼きなど様々な副業を行いながら暮らしが営まれてきました。その中でも保田紙の生産は、豊富な水と霧の発生しやすいこの地域の気候条件をいかした産業であり、主に女性の仕事として貴重な収入源でした。田の畦畔や山裾に植えられたシュロや和紙の原料となるコウゾ、鮨の巻き葉として利用されるバショウなどは、この地域の景観を特色づける重要な要素になっています。

  • 棚田の畦畔に植えられたコウゾ棚田の畦畔に植えられたコウゾ
  • 保田紙の製造風景(昭和45年)保田紙の製造風景(昭和45年)
  • シュロシュロ

景観

あらぎ島を中心とした文化的景観は、景観を眺める場所が限定的であり、展望所などから眺める景観は一定の距離をもった見下ろしの「中景」となります。あらぎ島が扇形のユニークな形状をした小さなまとまりの棚田であることや、周囲には山や河川、集落など多様な要素が目に入り、農山村景観の総体を一望できる、楽しみやすい環境があります。

展望所からの景観

展望所からの景観

主な構成要素

蘭島(あらぎ島)

蘭島(あらぎ島)

文化的景観の中核的な構成要素です。有田川の浸食作用によって形成された舌状の河岸段丘地形が水田化され、特徴的な棚田景観が生まれました。笠松左太夫によって行われた新田開発の一つで、古文書史料から明暦元年(1655)という開発年代が特定できる希少な事例であり、歴史的価値が高いものです。昭和28年の大水害によって、河川側の棚田が流出し、その後の農地復興によって現在の形状となりました。平成8年(1996)に第4回「美しい日本の村景観コンテスト」で農林水産大臣賞を受賞、平成11年(1999)「日本の棚田百選」にも選ばれています。6軒の耕作者からなる「あらぎ島景観保全保存会」が中心となって耕作が営まれています。

蘭島の旧牛小屋

蘭島の旧牛小屋

蘭島において、昭和28年の大水害による流出を免れた唯一の建物です。かつては牛小屋として利用され、農繁期になると居宅から牛を運び、牛を飼育しながら営農を行っていました。この建物は、当地域のかつての農業工程を物語る事例であるとともに、良好な景観形成にも寄与しています。

水田

水田

文化的景観の主要な構成要素であり、当景観の維持継承を行う上で欠くことのできない要素です。この地域では、有田川・湯川川沿いの河岸段丘を利用した蘭島、西原(湯子田・蘭向)、湯子川(湯子川・廣井原)の水田と、緩斜面を利用した三田区の水田があります。いずれも自然地形に沿って構築された当地域を代表する水田形態です。石積み、土坡が多く残されており、動植物の貴重な生息場所にもなっています。

上湯用水路

上湯用水路

総延長3.2キロメートルを測り、有田川の支流である湯子川から取水し、現在は受益地約13.5haの範囲を用水しています。笠松左太夫が開削した用水路の一つで、明暦元年(1655)という開削年代が特定でき、歴史的価値が高いものです。かつては土の水路で、春先には赤土を叩き締めて補修行う「はがね打ち」と呼ばれる共同作業が行われていましたが、昭和28年の大水害後にコンクリートへと姿が変わりました。

蔵王権現社

蔵王権現社

三田区にあり、当文化的景観を眺望する視点場の北端に位置しています。神社の由来については明らかではありませんが、天正年間に再建したと伝えられ、現在の社殿は文政年間の建立です。笠松左太夫が建設したと伝わる三田溝が境内のすぐ南側を通っており、その位置関係が注目されます。御神体は中世後期の一石五輪塔で、参拝すると失せ物が見つかることで知られています。旧暦3月11日には餅まき会式が行われます。

金毘羅権現社

金毘羅権現社

文政6年(1823)にこの地に勧請されました。雨乞いの火焚き神事が行われたという伝承があり、昭和20年代まで有田川を利用した筏流しが行われていた当地域にあっては、木材関係者の信仰が厚く、戦時中は海軍関係者が参詣し、出征者を送る前日の晩には百度参りする人が多かったといわれています。会式は旧暦10月10日に行われ、現在はその日に近い土日に餅まき会式が執り行われています。

春日神社・愛宕神社

春日神社・愛宕神社

西原地区の氏神として、南側に春日社と北側に愛宕社の両社が並んで祀られています。神社の位置する城山は、春日山とも呼ばれ、山上に中世城郭があり、春日神社南隣には館跡の存在が推定されています。春日神社では、西原地区の住民により毎年11月23日に亥の子行事として餅まき会式が行われています。

東向観音

東向観音

かつてはカシの巨木の樹洞に祀られていましたが、平成23年の台風12号によって倒壊したため、新しく木製の小社が建てられました。御神体は、石造の観音菩薩坐像です。地元では、お参りすればトントン拍子に事が運ぶと伝えられています。春日神社やフキの峠の地蔵と並び、中世城郭が位置する域山を取り囲むように位置する地域信仰物の一つです。カシの巨木に触れば災いがあるという伝承があります。

西原観音堂

西原観音堂

棟札の記述によれば、元は極楽寺という寺院が現境内の西側山中にありましたが焼失し、現在地へ移されたといわれます。茅葺き、トタン張り、縁付きの小規模なお堂で、現在の建物は棟札から享保8年(1723)の建立です。本尊は千手観音坐像で、現観音堂の建立と同時代の作です。旧3月3日の節句には会式と餅まきが行われます。

西原観音堂石造物

西原観音堂石造物

西原観音堂の北側にあり、周辺部から集められた石仏、庚申塔、五輪塔、宝篋印塔などがまつられています。永享4年(1432)の紀年銘がある五輪塔の地輪は、現状では宝篋印塔の部材と組み合わされていますが、阿弖河荘域にのこる石造物では最古の紀年銘資料です。この他、中世に遡る石造物としては、緑泥片岩を用いた宝篋印塔の残欠があり、類似するものが西原フキの峠にある石仏の基壇に使用されています。永享4年(1432)の紀年銘がある五輪塔をはじめ、西原地区の中世段階の開発を証明する要素であり、当地域の歴史を理解する上で重要な要素です。

フキの峠の地蔵

フキの峠の地蔵

城山の南麓にあり、西原を二分するフキの峠の頂上に建っています。中世の宝篋印塔と五輪塔が組み合わされた石塔1基と近世の地蔵仏がまつられ、地元住民により地蔵として信仰されています。基壇は、緑泥片岩を用いた宝篋印塔の残欠で、類似するものが西原観音堂にも存在します。石造物の建つ位置は、中世段階の日常と非日常的な空間の境界にあたり、往時の空間構造を物語る遺物としても価値が高いものです。

愛宕神社

愛宕神社

三田区中谷集落の西側尾根の頂部に位置しています。御神体は、京都愛宕権現の本地仏である将軍地蔵をまつっており、火除け、防火の守護神として信仰されています。将軍地蔵は勝軍地蔵ともいわれ、勝負必勝を願う人々によって信仰を集めましたが、かつては花札や博打を打つ人々が石仏の一部を打ち欠き、財布に入れていたといわれ、そのためか、石仏の上部や側面は打ち欠かれた状態となっています。旧暦1月24日に、餅まき会式が行われます。

小峠地蔵堂

小峠地蔵堂

小峠集落の中央に位置し、昭和2年の笠松左太夫頌徳碑建立にあたり、現在地へ移設されました。地蔵堂の由来は、清水城落城に際し落人が山中で自害した霊を弔うためとも、亡霊が出たためにそれを弔うためとも伝えられます。中尊の地蔵坐像は元禄6年(1693)小峠地蔵講による建立で、堂内には合計17体の石仏がまつられています。近年は耳地蔵としても信仰が厚く、堂内には穴のあいた石や奉納者が穴を空けた石が納められています。 小峠集落の歴史や成立経過を理解する上で欠くことのできない要素です。

松葉観音堂

松葉観音堂

小峠地区の「松葉堂観音御由来縁起」によれば、祖父笠松左太夫の発願を受け継いだ笠松惣兵衛宗清が、安永6年(1777)に観音堂を建立したとされ、現在の建物は昭和60年12月に建替えられたものです。本尊は聖観音立像で、地元では泉州水間観音の姉仏という伝承があります。初午会式は安永7年(1778)2月8日より始まった伝統ある年中行事で、周辺部の中でも規模の大きな餅まき会式であり、厄除け祈願に多数の参拝者が訪れます。
初午会式は、周辺地域でも古い形態を留めた作法がみられ、当地域の信仰形態を理解する上で重要な要素です。

笠松左太夫頌徳碑

笠松左太夫頌徳碑

江戸時代の山保田組初代大庄屋で、私財をなげうって数多くの灌漑水路を開削し、蘭島をはじめ数多くの新田開発に取り組んだ笠松左太夫の功績を讃える石碑です。隠居した万治年間(1658~1661)には、吉野から紙漉工を連れ帰り、小峠地区を紙漉き村として開拓し、現在まで続く保田紙を創始した功績を讃え、海瀬亀太郎が発起人となり、清水村長、小峠の住人によって昭和2年建立されました。石材は、三田の僧の谷から運ばれたものが使用されています。当景観の基礎を築いた笠松左太夫の功績を示す場所であり、当地域の歴史や景観を理解する上で重要な要素です。

関西電力三田発電所

関西電力三田発電所

蘭島の東側に隣接して構築された現役の水力式発電施設です。堰堤は石張りの重力式で、堤高2.7m、排砂口部分を除く全長は47.8m、止水面はコンクリート造で、越流部は石張りです。堰堤の西側に取水口があり、そこから887mのトンネルを抜いて水槽へ至ります。昭和4年(1929)10月完成で、有田川水系の関西電力関係施設では当時の形態を残す唯一の遺構です。堰堤は当初のものとみられますが、排砂口や取水口については明らかではありません。日本の電気事業が水力の時代として大きく発展した段階に建設された近代化遺産であり、人と自然の共生を示す重要な要素の一つです。